田中良介
目次
野鳥録音の旅in台湾
〔第二回〕まずは最南部、恒春半島・墾丁エリア(その一)
今回から、台湾録音旅行記の本題について具体的な記述を始めさせていただきます。
旅の行程に沿って書くのが、記憶をより正確に辿れると思いますので、そのように書き進めることにします。
そもそも、今回の台湾訪問については、前回にも書きましたが、台湾野鳥録音界の第一人者、つまり現在の日本に例えれば松田道生さんのように高名な、孫清松(スン・チンソン)さんがいわば私の身元引受人とも言うべき役割を引き受けてくださり、たいへんなご協力をいただきました。お陰でどれほど助かったことか分かりません。
孫さんを紹介してくれたのは、福岡在住の私の友人であるK氏の台北の朋友、会社社長のSさんですが、Sさんを通して私のことを知った孫さんが、私の活動を高く評価してくださり、全面的なサポートを申し出てくれたのです。
CDを聞いて私が台湾にもこんな人がいるのだと、痛く感銘を受けたその人が私の台湾訪問を支援してくれることになるとはほんとうに奇縁と言うべきですが、福岡のK氏にはじまり、台北のS氏、そして何よりも孫清松氏、さらには台湾南部で私を熱心にサポートしてくれた孫氏の友人である劉川氏と言い、人のつながりの力の強さ、大切さ、そして何よりもありがたさを今回の旅でも改めてとても強く感じた次第です。
さて、2014年3月18日午後、私が乗った中国東方航空便は台湾台北市の「桃園国際空港」へ到着、そこからタクシーで台湾新幹線(台湾高速鉄道)の「桃園」駅へ移動します。台北始発の列車は定刻にやって来て乗車すると列車は一路台湾の東部を高速で南下します。乗り心地は日本の新幹線とまったく同じ、窓外の風景と車内のアナウンスや掲示が違わなければ台湾の新幹線に乗っていると言う実感が得られないほどです。
窓外の風景でもっとも違和感を持ったのは出発してものの30分も走ってやがて田園風景が見られるようになった頃、線路の両側に椰子の木が規則正しく植えられた畑が目立つようになったことです。いかにも南国的な風景だったので、とくに不思議にも思わず「台湾ではこんなに椰子を栽培しているのだ、知らなかったなあ」などとぼんやり眺めていました。じつは後で分かることですが、これは椰子ではなく別の植物だったのです。
列車は1時間半少しで終点の「左営」駅に到着、その夜は高雄市内で一泊して翌19日から実質的な台湾録音の旅程が始まります。
ここで私の16日間の旅の行程のあらましを書きますと、まず台湾最南部で始めの5日間を過ごし、前述の劉川氏のサポートのもと、「墾丁国家公園」と南部の拠点の町「恒春」周辺で鳥の声を探します。
次に、台中市へ移動、孫清松氏が住む大雪山麓海抜500メートルの村の孫氏のご自宅に6日間も滞在させていただき、おもに孫氏邸付近と、そこから車で一時間以上走って登る大雪山林道、そのほか周辺の山中で鳥の声を録音します。
最後の5日間は、台北市に戻り、以後は私一人で台湾最北部の自然と、台北市内の緑多い公園で鳥たちに出会う、ざっとこのようなスケジュールをこなすことにしていました。
3月19日午前9時ごろ、高雄市内のバスターミナルから南へ行くバスに乗り、台湾最南部、屏東県、恒春半島の中心の町「恒春(ヘンチュン)」を目指します。そこのバス停で孫さんが紹介してくれた劉さんが待っていてくれるはずです。
劉さんは、屏東県の南部の多くの面積を占める、台湾に六つある国家公園(国立公園)の一つである「墾丁国家公園」に長く勤務した後、三年前に定年退職したそうで、野鳥については専門家の一人であり、現在も保護や調査などで活躍している、今回私のサポートをお願いするについてはこれ以上は望めない人物です。
その上、孫清松さんから聞いて、同じく私の活動にとても共鳴してくれ、喜んで私の世話を引き受けてくれたようなので、力強いことこの上もありません。その劉さんと恒春のバス停で落ち合った後、町のレストランで昼食をともにしながらこれから5日間を過ごすここ最南部での行動について打ち合わせをしました。
二人の会話は中国語の標準語に英語を交えて始めたのですが、細部になると私の会話能力では頼りないと感じたのか、劉さんが「じつはこの近くに、私の知り合いで日本語に堪能な老人がいます。スケジュールの打ち合わせだけでもその人を介してしっかり相談しましょう」と言います。私も異論がないので早速劉さんの車でその人物「陳盛鰍」さんの家を訪ねました。陳さんは83才になるお年寄りですが、ニコニコと大きな声で元気よく我々を迎えてくれました。戦前の日本統治時代に学校で日本語による教育を受けた世代である上に、若い頃は長くその能力を生かして台北で日本人相手に観光ガイドをされていたとかで、ユーモアを交えてとても流暢な日本語で話します。
結局陳さんのところでは、スケジュールの細部について打ち合わせる話などはする暇がなく、ひたすら陳さんとの日台親善をはかる会話に花が咲き、楽しい時間を過ごして、その晩から泊まることになったホテルに向かいました。
劉さんが紹介してくれたホテルは恒春の町外れの田園地帯にあり、広大な敷地を持つリゾート型、滞在型の、まだ本格営業を始めたばかりの異色のホテルでした。
どこが異色かと言うと、例えば食事は共同のキッチンで自炊、洗濯なども自分でするなど、とても自由で開放的なホテルです。しかも自然を出来るだけ取り入れることをコンセプトにしていて、野球場が二つぐらい入りそうな広い敷地のほぼ中央部にまだ建物は一棟しかなく、2階建てで部屋はあわせて5部屋しかありません。名前がしゃれていて「天際線」、つまり英語で言えばスカイライン(空を背景とした山の意)で、若い経営者の理想が形となったホテルです。
自炊型なのに一泊の料金が日本円で12000円もする高級リゾートホテルで、私のような貧乏旅行者がとても滞在できるところではないのですが、たまたまその週は予約がまったく入っていないとかで、客が一人もいないのも淋しいのと、オーナーと劉さんが懇意なので特別に4分の1、つまり1泊3000円で泊まらせてもらえることになりました。もちろん町外れなので、往復は劉さんが毎回送り迎えをしてくれます。
ホテルは広大な敷地の中にあると言いましたが、敷地内は広いよく手入れされたグラウンドのような草地になっています。建物の前後には大小の浅い池があり、バンやマガモ、カルガモなどの野鳥のほか、5羽のガチョウが放し飼いにされていて、外部から人がやって来て車から降りるや否や、駆け寄ってきてガーガー鳴き立てるのには参りました。
ただ、鳴き騒ぐだけならまだしもその中の1〜2羽が噛み付きに来るのでたいへんです。建物の外に出るたびに彼らが近づいてきて騒ぎ立て、おまけに攻撃してくるので困りました。私は咬まれなかったのですが、劉さんはズボンの上から何度も咬みつかれ、あとでその部分を見たら紫色になって血が滲んでいたほどです。
このホテルに到着して、まず耳に入ってきたのはこのガチョウたちの声のほかには、ホテルの敷地内のあちこちに生えている木々の枝で鳴く「クロガシラ」の声です。
その声は同類の「シロガシラ」にとても良く似ていて区別がつかないほどです。クロガシラとシロガシラはともにヒヨドリ科で、外見上もそっくりです。大きさ、体色も遠目ではとてもよく似ているのですが、よく見るとシロガシラは頭頂部が白く、クロガシラの頭は名前の通り黒いので区別できます。分布的にはシロガシラは簡単に言えば台湾の北部に多く、クロガシラは南部に多い鳥ですが、境界地域では交雑しているそうです。
クロガシラの台湾名は「烏頭翁(ウー・トウ・オゥン)」、意味はカラスのような黒い頭のお爺さん。英名はスタインズ・バルバル(バルバルはヒヨドリのこと)ですが、100年ほど前に、この鳥の見本が中国に運ばれ、それを見たイギリスの鳥類学者が、クロガシラが台湾の固有種であることを確定したので、この学者の名が英名となっていると言うことです。
とにかく南部一帯ではクロガシラの数がとても多く、平地から低山まで、どこに行ってもこの鳥の声が聞こえます。ほかの鳥の録音をしていてもたいていバックにはクロガシラと、もう一種同じく台湾固有種で、どこにも多い鳥「ゴシキドリ」の、特徴のあるカエルのような鳴き声が入ることが多く、背景音として時として良い場合もあるのですが、ほとんどの場合は迷惑な存在としてうるさく感じるほどでした。
さて、私にとってとても大事なことですが、初日に劉さんとスケジュールについて話し合った時に、台湾で私が録音を期待している鳥としてオオコノハズクを挙げた時、劉さんは「ベリーイージー」と言ってくれました。それも遠出をする必要はなく、恒春の街なかで簡単に出会えると言うのです。
で、初日の夜(じつはこの日の朝も早起きをして高雄を出発したので、とても疲れていたのですが)夕食後劉さんが「オオコノハズクの録音にでかけよう」と迎えに来てくれたので、疲れも忘れて喜び勇んで同行しました。出かけた先は何と街なかの中学校です(!)。校庭の周りには外灯が灯っています。最も明るいのは事務室のある建物の周りで、なんでもそこの外灯に集まる虫を食べにオオコノハズクがやって来て、傍の樹木に止まって鳴くのだそうです。もし本当だとしたら、声が小さいことで知られるオオコノハズクの声を間近から録音できるではありませんか。ここ数年、毎年対馬に通ったりしては空振りを喰らっていた念願のオオコノハズクに、しかも至近距離で出会える、私は疲れも忘れて劉さんについて行きました。
ところがです、劉さんが胸を叩いて「ベリーイージー」と言ってくれた、そのオオコノハズクがなぜかいないのです。始めの学校を諦めて、もう一校別の中学校を訪ねて、宿直の先生にも会って話を聞きましたが、なぜかこの夜に限って1羽もいないのです。
「いつもはこの木の枝に来るのですがね」そう言って宿直の先生が指差す外灯のそばの灯りに照らされた木の根元には白いフンがいっぱい落ちています。「落し物」はみなオオコノハズクのものだといいます。
遠く日本から会いに来たと言うのに、その夜に限って姿を見せてくれないとは。私はどうしてこうもオオコノハズクに縁がないのだろう。私が明らかに落胆している様子を感じたのか、劉さんは「ミスター・タナカ、明日の夜も来て見よう。きっと出会えるよ、ここがダメならもっと有望なところに連れて行くよ」と慰めてくれます。
こうして残念な夜の探鳥を終え、再び劉さんに送られて、肩を落としたまま宿舎に戻ったのはもう10時近くになっていました。
疲れている上に、次の日からは早起きをしなければなりません。とにかく早く寝ないといけないのですが、日記を書いたり、機材の点検をしたり、明日以降の行動に思いを馳せてしまったりとなかなか寝付くことができません。少し開けた窓から前庭にある広いほうの池から時々聞こえてくる正体不明の鳥の声が気になって、いつまでも眠気が来ない台湾最南部初日の夜を過ごしてしまいました。
(第二回終わり)
(「野鳥だより・筑豊」2014年7月号 通巻437号より転載 2014-07-03)
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