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クマタカ
くまたか (日本野鳥の会筑豊支部)
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modify:2020-09-27

シンボルマーク

録音でつきあう
野鳥の世界

田中良介

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目次

シンボルマーク録音活動を回顧して・外国での録音、その二

前回は、「外国での録音、その一」として、中国・蘇州でクロウタドリの素晴らしい鳴き声を録音した話を書きました。蘇州と云うことで、日本の人にも有名な“寒山寺”を訪れたことも記述しました。
さて、蘇州から次に向かったのは、仏教の授戒を日本で行う為に、何度も渡航に失敗して、艱難辛苦の末にやっと6度目の挑戦で日本に渡って来た鑑真和上が、渡航前に住職を勤めた大明寺がある揚州市です。
鑑真さんは、仏教だけではなく当時は世界の最先進国であった中国の書道、建築、彫刻、薬学などもわが国に伝えた、いわば日本人にとっては大恩人と言える人です。
揚州市を目指したのには2つの理由があって、一つにはもちろん野鳥の鳴き声を求める目的で、蘇州よりも人口が少なく、当然手近に自然があるだろうと推測したこと。
もう一つは、何と言っても、鑑真和上ゆかりの寺を訪れてみたかったからです。
大明寺には唐に留学した空海も806年に数ヶ月滞在しています。空海がわざわざ寄り道するほど価値が高い寺院だったと言うことでしょう。
突然ですが、古い歌謡曲で“無錫旅情”という曲がありました。♪上海、蘇州と汽車に乗り〜♪。あの歌のとおり、上海から三つめの駅が無錫。無錫の次が常州、そして鎮江市があります。
揚州市に行くには、まず鎮江まで列車で移動します。鎮江市は長江の下流域、交通の要衝に位置し、古くから商業都市として栄えた街です。
じつは私はそれまで何度も長江下流の街々に旅をしていたにもかかわらず、一度も長江(かつては揚子江と呼ばれた)を見たことがありませんでした。鎮江を訪れたら一番に長江を身近に眺めてみたいとずっと思っていたので、真っ先に行ってみたのは長江を見下ろす丘の上にある“北固山(ほっこざん)公園”です。
公園の突端の岸近くに立って初めて眺めた長江の風景。対岸が霞んでいて悠々たる雄大さが感じられ、とても感激したものです。
この公園がある“北固山”には歴史的にとても興味深い場所があります。
それは、かの三国志の頃、呉(現在の江蘇省を中心とした地域)の王・孫権が、覇権を争っていた蜀の劉備玄徳を殺害するために、妻を亡くしたばかりの劉備に結婚相手を紹介すると言う名目で誘い出したと言います。
しかし、卑劣な企てを知った孫権の母が息子を諭して、暗殺計画を諦めさせて、劉備を平和裏に迎え、逆に二人が協力して曹操を倒す計画を練ったとか。その話し合いをした場所というのがありました。
また、公園の一角には安倍仲麻呂の有名な和歌、「天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に いでし月かも」の歌碑がありました。もちろん仲麻呂はこの地に来たことはなく、近年になって日中友好協会が建立したものです。
この“北固山公園”の小高い丘と、長江に面した斜面には、緑の木々もありましたが、スズメの声や時折シロガシラとメジロが鳴く程度で、とくに収穫はなく、その後近くの有名寺院である“金山寺”に移動しました。4世紀に建立された名刹です。
“山”と言っても、高さは44mの小さな丘に建てられていて、境内には人が多くて録音に適した環境ではありません。唯一、長江から吹き上がってくる風で、お堂の軒先に吊るされた風鐸(多くは銅製・風鈴の大きなもの)が揺れるカラン、カランと鳴る音に、ちょうどシロガシラの声が重なる瞬間があり録音したぐらいでした。
さて、揚州までの道はまだ半ば。
バスに乗って長江を渡り、そこからタクシーに乗りました。当時、中国の田舎の都市では料金メーターのついたタクシーはほとんど無くて、客が目的地を運転手に告げて料金を交渉することが当たり前に行なわれていました。中国では「値切る」ことが出来なければ旅はできません。次々と客待ちのタクシーと交渉してやっと一台が私の提示する料金に応じてくれ、まだ未舗装だった道を揚州に向けて走ってくれました。
揚州・大明寺の前には、これも有名な“痩西湖”という公園があります。美しいのですが、本家・杭州の“西湖”よりも小さいのでこの名前になったとか。まずはこの“痩西湖”公園の岸辺を散策してみました。
ここはサギ類(コサギ、ゴイサギなど)が多く見られ、例によってシロガシラ、シンジュバト、ハッカチョウ、そしてクロウタドリなどが多く見られました。ただ観光客が多くて、音の思い出としての録音をしただけでした。
次はいよいよ目的の“大明寺”です。
大通りに面している正面の緩やかな階段を上った先に立派な山門がありました。
その門前には九州では見ることができないオナガが折柄繁殖の真っ盛り。巣立ったばかりの幼鳥を5、6羽も連れた親鳥が行きかう人々の間で警戒の声を出しながら地面に降りて、参詣客の落とした菓子などのかけらを拾っていました。
鑑真さんとはどのようにして見知らぬ日本への旅を決行することになったのでしょうか?当時わが国の仏教界では僧侶の堕落が蔓延していました。それは高い地位の僧侶がいないために、正式な僧侶として戒律を授かることが出来なかったのが一因でした。時の政府から栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の二人の僧が遥々と揚州・大明寺に派遣され、受戒ができる高僧の派遣を要請した結果、誰も手を挙げない中、ただ一人鑑真さんだけが引き受けたということになったといいます。
何度も航海に失敗した後、やっと日本にたどり着いたのは753年、すでに鑑真和上67才、しかも過酷な旅を重ねて失明していました。しかし、その後わが国3ヵ所に戒壇院を建立(大宰府・観世音寺もその一つ)、多くの僧に授戒を与えました。
遅くなりました。大明寺での野鳥録音はどうだったかですが、ここでも多くの参詣客がいて、良い録音はもちろんできませんでしたが、とても印象に残ったのは、本堂への道のあちこちにある柏の木(日本の柏ではなく針葉樹の一種)に、目の前の“痩西湖”を餌場とするたくさんのゴイサギが巣を作って繁殖していたことです。
他には例によってクロウタドリの姿と声がありましたが、雑踏の中でそれらの声は満足に録音することは出来ませんでした。
有名な大明寺で、日本から送られた鑑真和上像や空海の銅像、そして東山魁夷画伯の絵を鑑賞したあと寺を後にしました。
大明寺に隣接する丘陵地帯は茶畑になっていました。穏やかな陽射しの中、茶畑を見下ろす丘の草地に座ってしばし休息。傍の樹上で日本と同じカワラヒワが鳴いていました。茶畑で働く女性たちの茶摘歌と、カワラヒワのコラボだけが唯一の揚州の音のみやげとなりました。

(終わり)
2020-02-10掲載

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