日常やフィールドで出会ったいい話、困ったこと、奇妙な体験、ちょっと真面目な話など、みなさんの“野鳥風景”を掲載します。
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鐡 直次郎 2010-07-11掲載
(日本野鳥の会筑豊支部会員)
やじろべえさんからの呼び掛けにとペン?いやキーボードを打ちはじめた。
論旨が的を得ないかもしれないが、私なりに思うところを語りたい。
まず、私が野鳥に興味を抱き始めたのはもう30年以上も前になる。野球チームの仲間と英彦山探鳥会へ参加し、当時の事務局T氏のプロミナー(興和の標的確認用の望遠鏡、当時野鳥観察用に転用?利用されていた望遠鏡でかなり高価であったとの思いあり)でイカルを見せてもらった。以来、初めて見る鳥の姿、聞く鳥の声に一喜一憂してきた。
鳥を見に、自分で出かけたり、先輩に連れて行ってもらったりして、ライフリストが一種増えるごと、野鳥との出合いの楽しみが増していった。また、最初の双眼鏡は親父が競馬用に使っていたV社製、親父は双眼鏡への配慮には無頓着、光軸がずれており、レンズも暗かった。T氏や先輩のUさんの持っているN社製の双眼鏡を借りて鳥を見ると視野が広く、しかも明るい。鳥を素早く発見する彼らの術は道具にありと誤解を含めそれが欲しくなった。発見の極意は道具だけではないと知るのはずっと後になるのだが、早速購入した。道具を新しくすると試したくなり、頻繁に野や山、海岸に出かけた。今考えると、一番楽しい時期ではなかったか。しかし、欲望とは深くなるもの。特に海岸へ出かけるようになると、双眼鏡の限界を知ることとなる。望遠鏡購入へと流れができてくる。
そして、カメラを手にする。鳥を見る楽しみから、鳥を撮る醍醐味を知ることになる。またしても道具から入り、持っていたM社製カメラからレンズの種類が多いN社製カメラに替えた。カメラを手にしてから、鳥を見ることと、鳥を撮ることの二本立てとなる。初め、この二つの行為は同じだと思っていたが、どうも似て異なるものであった。鳥を撮る、それは被写体としてのこだわり、執着であったり、とどのつまりは作品制作の手段である。野鳥に会いにいって、いなくても残念!では済まなくなる。大袈裟に言うと「絶対に撮りたい!」という欲望が生じる。
前置きが長くなってしまった。今回、提起された野鳥情報の発信、及び管理の問題は、少なからず30年前も生じていた。その鳥を撮りたいという欲求、その種の出現率が低く、珍鳥度が高い時ほど気を使った。問題なのは撮る側の量と質。特に、やじろべえ氏が言っておられるように現況の野鳥カメラマンの増大は想像以上である。量が増えると質の方も下がってくるのは世の常である。
そこに出現した野鳥はアイドルでもなければ、モデルでもない、「私を見て、写してね」と出現したわけではない、たまたまの偶然の賜物である。「出現」もそうだが「発見」もそうなのだ。例え、いつも歩いている自分のフィールドであっても、相手は野生動物である。誰が第一発見者なのか誰にも分からず、序列などはない。勿論、第一発見者が絶対の権利者ではない。
私はこう考える、情報を発信しないことを選択することで、個人的にその鳥を一時的に独占できるし、素晴らしい判断である。何も問題がない。やがて、鳥は移動し、いなくなるのだから。次の場所でまた同じことの繰り返しとなる。一方、情報を発信することで、その鳥の独占権は消滅する。伝達先を限定しようとしまいと同じである。たとえ一人であろうとも情報を伝達したことで、発見者の独占は消滅してしまう。
知らせる義務はないが、知らせない権利は観察者(=発見者)には認められるべきと考える。その権利を自ら放棄(情報の発信を)してしまったならば、次の人(受信者)はこの権利と責任を背負うことになる。責任とは、鳥への影響であり、周辺への配慮である。このことは伝達者全体の責任となる。
珍鳥と呼ばれているクラスであれば(やじろべえ氏の文中にも新幹線で…の記述あり)、ネット社会ではあっという間に情報は伝播する。そのことを考慮し、あとは自身の判断である。勿論、「や・さ・し・い・き・も・ち」を実践できるよう、互いを励まそう。
私の独善的結論。
珍鳥を発見した時は「知らせない権利」を執行せよ。知らせる義務など生じないのだ。知らせてはならないというのではない。ただ、知らせない権利、それを自ら放棄したならば、生じうる事態に責任を背負い、責任を遂行せよ。情報を共有した写真仲間は共同体であれ、情報を発信したならば共同で責任を背負い、発信しっぱなしはなしにしよう。
自分の経験上、カメラを持つと人が変わってしまう。鳥を見て森を見ないのである、被写体の前の枝にイラッとしたりする。けっして珍鳥ハンターとなってはならないと自戒し、鳥だけを撮るのではなくて、鳥を含めた風景を大事にしようと決めている。
醍醐味とは仏教用語であり、最高の味を意味する、醍醐とはチーズの様なコクのある食物とされている。ただ撮るだけでなく、コクや旨味を感じて、そう、野鳥と出会える環境に、風景に、感激し、楽しみ、感謝したい。
本当に的を射てはいない文章となってしまった鴨?
(くろがね なおじろう)
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